青春18きっぷで神戸発岡山1人日帰り旅② 備中高松城跡を訪ねる
青春18きっぷで神戸発岡山1人日帰り旅② 備中高松城跡へ
こんにちは
1人でやりたいことをやろう〜をコンセプトに行った場所、以前からやりたくてやってみたことをブログに綴っています😊
行きと同じく15分程で岡山駅に到着。
青春18きっぷを提示し構内に入ります。
JR桃太郎線で岡山駅から5つ目の駅、備中高松駅で降ります。所要時間20分程度。
J R桃太郎線は2両のローカル線で出発時と駅到着前に 桃太郎の曲が流れます。
流れるたびに も〜もたろさん も〜もたろさん♪ とつい心の中で歌ってしまいます。
↓が乗った電車。
備中高松駅に到着〜
本数はこんな感じで少ないので帰りのために写メっときます。
駅を出てどっちに行けば高松城跡に行けばいいのか 案内看板出てるだとうと思って探しましたがありません。
もう一度駅に戻り 駅員さんにお聞きしました。
印刷された道順を書いた紙をくださり丁寧に案内してくださいました。
駅から西に向かって少し歩き踏み切りに出たら踏切を渡りずっと歩きます。
途中、史跡船橋がありました。
史跡船橋からもう少し歩き駅から徒歩15分程度で到着。
天正10年(1582)5月、秀吉率いる軍勢三万は高松城を取り囲み、宇喜多軍なども攻め込みますが力攻めすることができず 黒田官兵衛の進言といわれる水攻めに取り掛かります。
約2.7キロの堤防を築き、足守川の水を引き入れ高松城を湖の弧城にしました。
毛利勢が手を出せないまま 6月2日に本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反により殺害されます。3日、毛利方に向かう光秀の密使を捕まえて信長の死を知った秀吉は、そのことを隠して高松城主・清水宗治の切腹を主張して講和を結ぶように説きます。
宗治は5千人の城兵と毛利を助けるとの条件でそれを了承したと言われています。
6月4日、宗治は湖上に船を浮かべて自刃し織田方と毛利方の和睦が成立しました。
公園内は綺麗に整備されています。
水攻音頭とかあるんですね
資料館に入ります。無料です。
水攻めの古図や備中七城の資料、清水宗治の備前焼の象など水攻め関係の資料を展示収蔵していす。(休館日:月曜 開館時間:10時〜15時)
館内に入ると地元のボランティアの方が色々説明してくださいました。
興味深いお話をたくさんお聞きできました。
宗治は元々の毛利家の部下ではなかったのに秀吉からの備中、備後の領土を与えるといった話を蹴って毛利方に忠義を尽くして自刃したとのこと。
地元の方々は城跡の保存に尽力されボランティアで毎週公園内の清掃をされているそうです。
(資料館、少しでもお役に立つように入場料取ってくださればいいのにと思ってしまいました)
水攻めの時の布陣。今の駅の所まで水に浸かっていたのがわかります。
すごく広い範囲です。
戦国時代よりもっと昔の弥生時代の土器も展示されていました。
1階にあった銅像。
こちらは2階の銅像。
ゆっくり見てまわり最後に御城印を購入して資料館をあとにしました。
公園を出てすぐのところに清水宗治公自刃の地があります。
清水宗治の辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」の石碑もありました。
宗治は本能寺の変の2日後6月4日午前10時頃、兄 月清入道、毛利の目付け役 末近信賀と共に秀吉側が仕立てた小舟に乗り 首の受取人である堀尾吉晴の陣の前まで漕ぎ寄せ静かに誓願寺の舞を舞い辞世の句を詠み見事切腹して果てたと伝わっています。
このあと秀吉は本陣を引き払い中国大返しが始まります。
官兵衛の隊の母里太兵衛が堤防を何箇所も切って引き上げたため下流は大洪水が発生し毛利はあとを追えませんでした。
秀吉は備前片上まで行き、ここから船で姫路に帰り 明智光秀を討つための準備に取りかかり山崎の合戦で明智光秀を討ち天下取りの足掛かりにしました。
しばらく戦国時代に想いを馳せ また駅までの道を歩いて戻り 備中高松をあとにしました。
とても感慨深い旅になりました。
このあと岡山からまた電車に乗り姫路駅で乗り換え神戸市内に19時頃戻ることができました。今回の旅はこれで終了です。
最後までお読みいただきありがとうございました⭐️