別所長治公〜三木城跡を訪ねて 三木の干殺し
こんにちは😊
今回は兵庫県にある三木の干殺しで有名な三木城跡を訪ねましたのでその様子をご紹介させていただきます。
三木城跡の二の丸跡に 三木市立 みき歴史資料館がありますのでそちらで車を停め、まず歴史資料館を訪ねました。
中に入ります。入館料無料です。
入ってすぐのところに甲冑や陣羽織が展示されていました。
動画で三木市の観光地などが紹介されています。三木市出身の落語家さんが紹介されていますので聞きやすく楽しめました。
まず1階の常設展示室から見て回ります
縄文時代からの資料が展示されています。
三木合戦の動画がありました。
鎌倉〜室町時代
複製ですが三木合戦軍図がありました。
別所長治公の説明
三木合戦の時に食糧貯蔵として使われていた壺が展示されていました。
1階を見終わったあと2階に階段であがります。
2階は企画展になっていてこの時は「三木町の地子免許特権と義民の記憶」が行われていました。三木合戦後、2年も籠城していた城下は疲弊していたので羽柴秀吉は救済措置として年貢.労役の永代免除を約束。この地子免許を江戸時代も続けるために訴願した文書などが展示されていました。
最後に三木城のご城印を購入。200円は安いですね。
歴史資料館を出て 三木城本丸跡に向かいます。
三木城は15世紀後半に別所則治によって築かれたと考えられています。
別所氏と織田氏の天正6年(1578)から天正8年にかけての三木合戦の舞台となった場所です。
1615年廃城となりましたが本丸跡は明治30年に上の丸公園として整備されました。
こちらは本丸跡内にある金物神社、三木は金物の町なので金物資料館も併設されています。
別所長治公の像があります。
別所長治公の時世の碑がありました。
『今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる
我が身とおもへば』
別所家は赤松家の流れを組む名家で織田信長に臣従していました。
1577年5月に加古川城で行われた、羽柴秀吉と別所吉親(長治の叔父)の会談で生じた不和をきっかけに関係が悪化。別所家が名家であるが故に 成り上がりである羽柴秀吉が総司令官であることに不満を感じたと言われています(他にも色々説があるようです)
1578年3月 織田家に反旗を翻し三木城に一族、国人衆と共に籠城しました。
包囲を続けていた羽柴秀吉は周辺の支城を攻め落として三木城への補給路を断つ作戦を実行しました。
補給を断たれた三木城内では餓死者が続出しました。
この籠城戦は後に『三木の干殺し』とも呼ばれ羽柴秀吉が多用する兵糧攻めの発端となりました。
1580年1月15日 自身の切腹と引き換えに城兵を助命する事を条件として降伏。
1580年1月17日 別所長治は自ら妻子を刺し殺し弟2人と共に自害しました。
長治公享年23。 妻照子22歳、長女竹姫5歳、次女虎姫4歳、嫡男千松丸3歳でした。
戦国の世は厳しいです(T . T
本丸跡から見た三木市街。
本丸跡の碑が立っています。
本丸井戸。
この日は平日だった為か他に人は居ませんでした。
本丸跡を散策しながら 三木合戦までの別所長治.照子夫婦に想いを馳せます.
合戦が始まるまでは夫婦仲睦まじく幸せに暮らしていたようで、
照子の辞世の句が残されています。
『もろともに 消え果つるこそうれしけれおくれ先たつならひなる世に』
あなたと一緒に逝けるのが嬉しい。普通であれば夫婦のどちらかが先に逝き、共に死ぬのは難しい世であるのにというような意味になります。
照子は愛する夫と一緒に逝けることが嬉しかったんでしょうね。
ただ幼い我が子も一緒に逝かせないといけない心境を察するととても辛くなります。
今回 資料を見たり本丸跡に行き戦国の世の辛さを強く感じました。
最後までお読みいただきありがとうございました😊